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千利休 死の商人は事実なのか!? 切腹の本当の理由は何だった!?

千利休 切腹

NHK大河ドラマ「真田丸」第25話「別離」では、秀吉の嫡男・鶴丸の危篤シーンから始まりましたが、回想シーンとして千利休の切腹シーンや豊臣秀長が兄・秀吉に諫言するシーンなどが描かれ、正直、時系列がわかりにくかったのでまとめてみました。

1591年2月15日 豊臣秀長 病死
1591年4月21日 千利休  切腹
1591年9月22日 豊臣鶴松 病死

つまり、25話の冒頭シーンでは、既に豊臣秀長と千利休は亡くなっていたわけです。

さて、千利休の切腹の理由について、ドラマ「真田丸」では

千利休が実は小田原攻めで、敵にもかかわらず北条家に物資を売っていた事が判明した事に加えて、秀吉が参拝する大徳寺の三門の真上に利休の像があり、その寺に参拝することは利休の足元を通ることになるため、これが秀吉の怒りを買った為と描かれていました。

利休が切腹させられた理由は諸説ありますが、千利休は堺のれっきとした商人で武器商人であった事は史実です。狭い茶室は密談の場で、鉄砲の産地である堺の商人達はこの茶室で武将たちの武器の売買の話し合いとしていたと言われています。ですので史料には書かれていませんが、北条家へ武器を売っていた可能性は十分あります。

それから大徳寺三門の上階に自像を置いた事については結構有名な話で、利休が参禅している京都大徳寺の三門を2年前に利休の私費で修復した際に、三門の上に木像の利休像を置いたことが罪に問われたという説です。但し、利休が勝手に木像を置いたのではなくて、大徳寺側が寄付のお礼に勝手に置いたとの事で、この説が本当なら完全な濡れ衣ですね。(ドラマでは茶々が利休に頼んで大徳寺に置くように命じていましたが)

2年前に設置した木像が何故、急に問題になるのか、、、
内々のことは利休に、公の事は秀長に相談するように」これは豊臣秀長が大友宗麟に言った言葉らしいのですが、秀吉の片腕となり豊臣政権を支えてきた秀長が病死し、利休は、その1ヶ月後に秀吉から「京都を出て、堺に蟄居」を命じられています。

ある説では石田三成が、千利休と豊臣秀長が秀吉の両輪となっているのをよしと思わず、秀長の死後、千利休を失脚させるために木像に難癖付けて秀吉に伝えたのではと言われています。

あるいは、ドラマのように大谷吉継が、利休を追い落としたのかもしれません。

どちらにせよ、今回で千利休はドラマから退場となりました。今回のように大河ドラマで悪徳商人として描かれる千利休も珍しいのではないでしょうか。信繁に「戦はもうかりまっせ~」とか言うセリフは今までの利休のイメージではありえないですね。

ドラマで大谷吉継が「利休のことは忘れろ、祟りなどあるはずがない。もしあるならば、真っ先に祟られるのは、このわしだ・・・・。」ってセリフがありましたけど、見事に病気のフラグ立っちゃいましたね、、。

小田原征伐から宇都宮仕置までの時系列まとめ

小田原征伐から宇都宮仕置

NHK大河ドラマ「真田丸」第24話「滅亡」では、ついに北条家が滅亡しましたね。今川、武田、そして北条と戦国時代を代表する名門の大名家が、また歴史から名が無くなりました。
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それと同時に秀吉はついに天下統一を成し遂げました。信長の死から8年で全国統一を果たし、まさに疾風のごとく駆け抜けて実現したのは驚異的です。

今回は、23,24話の小田原征伐から宇都宮仕置きまでの天下統一総仕上げの詳しい経過を時系列でまとめてみました。

1590年3月27日 秀吉、駿河国沼津に着陣。
1590年3月28日 松井田城に攻撃開始
1590年3月29日 山中城に攻撃開始。
1590年3月29日 山中城が落城。
1590年3月29日 韮山城に攻撃開始。
1590年4月 1日 足柄城が落城。
1590年4月 3日 秀吉、小田原城を包囲。
1590年4月 6日 石垣山城の築城に取り掛かる。
1590年4月19日 厩橋城が落城。
1590年4月20日 松井田城が落城。
1590年4月21日 玉縄城が落城。
1590年4月23日 下田城が落城。
1590年4月24日 箕輪城が落城。
1590年4月27日 江戸城が落城。
1590年5月 5日 小金城が落城。
1590年5月10日 臼井城が落城。
1590年5月14日 鉢形城に攻撃開始。
1590年5月18日 本佐倉城が落城。
1590年5月19日 岩槻城に攻撃開始。
1590年5月22日 岩槻城が落城。
1590年6月 5日 伊達政宗が小田原参陣。
1590年6月14日 鉢形城が落城。
1590年6月16日 忍城に攻撃開始。  
1590年6月23日 八王子城に攻撃開始。
1590年6月23日 八王子城が落城。
1590年6月26日 石垣山城が完成。
1590年6月24日 韮山城が落城。
1590年7月 5日 北条軍降伏。小田原城が開城。
1590年7月11日 北条氏政と北条氏照が切腹。
1590年7月13日 秀吉、小田原城に入城。
1590年7月16日 忍城が開城。
1590年7月17日 秀吉、鎌倉に入り、鶴岡八幡宮を参詣。
1590年7月19日 秀吉、鎌倉を出立。
1590年7月26日 秀吉、宇都宮城に入城。
1590年7月28日 伊達政宗、宇都宮入り。(宇都宮仕置)
1590年8月15日 秀吉、宇都宮城を出立。
1590年8月20日 駿府城に入城。

小田原征伐って、小田原城を20万の大軍で取り囲んで、籠城し北条軍が疲弊するのを待っているイメージでしたが、秀吉の別動隊が北条軍の支城を沢山攻め落としていたんですね。これが心理的にボディブローのように効いて、北条軍は降伏したんじゃないかと思います。

豊臣秀吉は、7月で小田原征伐を終え、東国の勢力を制圧して、天下統一を成し遂げます。
宇都宮仕置(うつのみやしおき)とは、関東および奥州の諸領主に対して行った戦後措置のことです。

鎌倉幕府を開いた源頼朝が奥州合戦の際に1189年7月19日に鎌倉を出立し、宇都宮で宇都宮大明神に奉幣し奥州を平定したことに秀吉は、倣ったと言われています。(但し、秀吉が宇都宮大明神に奉幣し東国の安定を祈願したかどうかは記録には残っていません。)

ドラマ「真田丸」でも宇都宮仕置が描かれていましたが、ドラマでは宇都宮城で酒宴が開かれ、そこで長谷川朝晴演じる伊達政宗が「ずんだ餅」を皆に振る舞う演出でした。
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ドラマでの伊達政宗は、伊達家を守るために、プライドを捨てて秀吉にゴマをすり馬鹿を演じる、チャラ男っぽい設定でした。それでも酒宴後に「あと20年早く生まれてくれば、、」と信繁に語る政宗の無念さが伝わりました。

さて、有働アナがナレーションでも言ってましたが、関ケ原の戦いまであと10年。その間におこる出来事がドラマでどのように描かれるのか楽しみです。

沼田城攻防戦 矢沢頼綱は北条の大軍を4度も防いでいた!!

守護神 矢沢頼綱

NHK大河ドラマ「真田丸」第22話「裁定」では、沼田裁定が描かれていましたね。沼田城には真田、北条、徳川そして古くには上杉も関わり、大変戦略的に価値がある城とだというのがわかりました。
ドラマで片桐且元が地図を使用しての説明、領土を綺麗に色分けして判りやすかったです(秀吉からは説明が長いと怒られてましたが)。この裁定のプレゼンの為に片桐さん一生懸命に手書きで地図を作ったんでしょうね。
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さて、本能寺の変後、真田は沼田城を織田家臣の滝川一益からだまし取り、かすめ取り、勝ち取りますが、それ以降、沼田裁定で北条に沼田城を明け渡すまで、北条は沼田城に大軍を4度も送り込み攻めますが、4度とも全て矢沢頼綱の活躍により沼田城を守り抜いています。


(1)-1582年10月- 頼綱64歳
1582年7月上旬頃、真田は北条に臣従します。そして10月に北条に手切れを通告し、今度は家康に臣従します。これに怒った北条軍は、沼田城に北条氏邦率いる総勢5,000の兵が攻めてきます。矢沢頼綱は、500の兵で城から出て、支城を攻めている猪俣邦憲の部隊と野戦を行い大戦果をあげます。
その後、矢沢頼綱は沼田城にて籠城し、三日間守り抜きます。北条氏邦は、沼田城は強襲では落ちぬと判断し撤兵します。頼綱は、この機を逃さず打って出て北条軍に打撃を与えます。

(2)-1585年9月- 頼綱67歳
家康の上田城攻略に呼応するように、沼田城には北条氏直ら率いる30,000の大軍が攻め込みます。まず、頼綱は野戦に打って出ます。頼綱は名胡桃に逃走したと見せかけ、北条の部下猪俣能登を伏兵により敗走させます。
氏直は、沼田城に総攻撃をかけますが、頼綱は沼田城下に北条軍を誘い込み、火をかけ殲滅します。北条氏直は戦果もなく損害が大きくなった為、小田原へ撤退します。

(3)-1586年4月- 頼綱68歳
沼田城を諦めきれない北条氏直は、70,000の軍勢で攻めてきます。対する頼綱の軍勢は2,000のみでした。この年は長雨で川が増水しており、頼綱はあらかじめ片品川の橋を全て破壊します。これにより北条軍の行軍は難航します。北条軍は、新しい橋を掛ける工事にかなり時間をとられますが、そこに頼綱からの矢文が届きます。
「北条軍は小勢の沼田に大軍で攻撃してくるというが未だ攻撃の気配がない。兵士も退屈している」
という挑発文でした。北条軍は怒り抑え、頼綱の投稿を促す返書を5/11に送りますが、頼綱は何処吹く風。北条軍は5/25にようやく橋を完成させ、沼田城になだれ込みます。しかし突撃した後ろで、せっかくかけた橋が破壊されます。退路を断たれた北条軍に前回同様、
鉄砲を一斉に撃ちかけて北条軍を殲滅します。またまた大きな痛手を負った北条軍は退却を余儀なくされます。

(4)-1587年2月- 頼綱69歳
北条氏直は4度目の正直で、家臣の猪俣邦憲と由良国繁に沼田城責めを命じますが、頼綱は片品川にて由良国繁の軍勢を撃破、猪俣邦憲を軽くあしらって孤立させています。


矢沢頼綱チート過ぎます! 北条軍30,000とか70,000とか少々兵数を盛っているような感じもしますが、それでも頼綱の兵数は圧倒的に少なかったと思います。まさに真田家代々のお家芸ゲリラ戦法で北条軍を手玉にとり見事に沼田城を守り抜いています。

しかし残念ながらドラマ「真田丸」でもあったように沼田裁定により、1589年に沼田城を北条に明け渡すことになります。命懸けで守り抜いた沼田城を戦わずにあっさりと北条に明け渡した頼綱はさぞや無念だったことでしょう。
ドラマでは矢沢頼綱が、沼田城の柱に自分の体を縄で縛りつけてこの城と共に生き、死ぬ!」 「わしはここに残る!」「わしはこの城で100年生きるんじゃ~!」と駄々っ子のように叫んで、暴れてましたが、気持ちわかりますね~ 
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ドラマでは、北条家臣の猪俣邦憲が沼田城明け渡しから半年も経たないうちに名胡桃城強奪事件が起こり、秀吉も堪忍袋の緒が切れて、いよいよ北条征伐小田原攻めが起こります。その後の沼田城および矢沢頼綱がどのように描かれるのか注目です。

第11話~第20話 ドラマから退場した登場人物のまとめ

第11話~第20話 ドラマから退場した登場人物のまとめ


NHK大河ドラマ「真田丸」もあっという間に第20話まで終了し、豊臣秀吉が上杉景勝、徳川家康を上洛させ、四国と九州の平定が完了し、いよいよ天下統一の総まとめ、北条攻めの直前まで話が進みました。

ここで、第11話~第20話まででドラマ「真田丸」から退場した登場人物を復習もかねてまとめてみました。(※第1話~第10話まででドラマから退場した武将はコチラ)


室賀正武(むろがまさたけ)  第11話で退場
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ドラマ「真田丸」は、ドラマ序盤から同じ小県の国衆の真田昌幸のライバルとしてよく登場していましたが、第11話で徳川家康に焚き付けられ、昌幸を暗殺しようと企みましたが逆に返り討ちにあって上田城で斬殺されました。室賀正武のお決まりのセリフ「黙れ、小童(こわっぱ)!」は有名になりましたね。殺される直前までは、信濃の為にいがみ合いながらも手を取り合い共闘すると思っていたので、この回で退場になったのは本当に残念です。室賀正武は、正直いってマイナーな武将ですが、ここまで丁寧に描いた作品はなかったのではないでしょうか。
室賀正武を演じたのは、西村雅彦(にしむらまさひこ)さんです。西村さんといえばドラマ「古畑任三郎」を代表するようなドジでコミカルな役を演じることが多いですが、大河ドラマ「秀吉」では、とても怪しげな徳川家康を演じてブレイクしました。このドラマでの家康のイメージが史実にもっとも近いとの声もあります。
今回は室賀正武が史実どおりに惨殺されますが、もうちょっと西村さん演じるところ見たかったですね。


梅(うめ) 第13話で退場
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真田家の家臣、堀田作兵衛の妹で信繁の最初の妻です。ドラマでは堀田作兵衛は地侍の設定ですので、梅も兄と一緒に戦がない時は一緒に農業をするたくましい女性で、信繁とも相思相愛の中でしたね。
第13話の上田城合戦では、梅ちゃんに死亡フラグが何度も立ちましたが、その度にクリアして徳川との戦も終わって安心していた所に梅ちゃんが城を出て、徳川兵士に無残に殺されたシーンが描かれたのは、とてもショックでした。
うめを演じたのは、黒木華(くろきはる)さんです。最近、若手演技は女優としてメキメキ頭角をあらわしてます。黒木さんは、連続テレビ小説「純と愛」でうめと同じくほんわかした女性だけど、実は嫉妬深くしたたかな千香役を演じていました。
そういえば、梅はお腹に子供ができたと信繁に報告し二人は結婚することになりますが、後にきりと梅の会話で、なんとなくそんな気がしただけで信繁に報告した事を明かします。「これも一つの策よ。源次郎様なかなかその気になってくれないから」と結構、梅もしたたかな女性のようです。


石川和正(いしかわかずまさ) 第14話で退場
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徳川家康の筆頭家老でありながら秀吉にトップハンティングされ出奔した武将です。
当時としてこれは、かなりの重大事件だったのではないでしょうか。なにしろ出奔直前まで、秀吉と家康は小牧・長久手の戦いで戦っていたのですから。重臣ですので、徳川のトップシークレットな部分もよく知っていたことでしょう。この出奔の報を受けて家康は上田攻めを諦め撤退したようです。
出奔に関しては、はっきりの記された書物がないためなぜ出奔に至ったのかは不明です。ドラマでは命がけで伊賀越えルートで家康と一緒に逃げ帰ったんですけどね~(ちなみに史実でも一緒に伊賀越えしています)
石川和正を演じたのは、伊藤正之(いとうまさゆき)さんです。三谷作品にも数多く出演しているベテランさんです。第二話で「徳川家中は一心同体。心配ご無用でございます!!」と家康に言ったときは歴史ファンから総ツッコミが入ったのは間違いありません。出奔後はドラマ的には真田家とは、関わりは薄いのと有働アナが「石川数正は、その後秀吉のもとで、信濃松本10万石の城主となった」とナレーションしていたので、このまま退場でしょうね。



旭姫(あさひひめ)  第16話で退場
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秀吉の妹で、朝日姫とも言われています。家康を上洛させるために秀吉の命令で強制的に離縁させられて、家康のところに嫁がせられる、ちょっと気の毒な女性です。戦国時代での政略結婚の犠牲になる女性は多くいますが、愛する夫と無理矢理、引き裂かれて好きでもない男の所に嫁ぐというのは本当につらかったことでしょう。旭姫は大河ドラマでは「真田丸」を含めて7回登場しています。その中でも
「おんな太閤記」の泉ピン子演じるあさひには泣きました。せんだみつお演じる夫の甚兵衛と相思相愛だったのにね~
旭姫を演じたのは、清水ミチコ(しみずみちこ)さんです。終始ブスーっとした顔芸で存在感ありましたね。ネットでも「真田丸」での最高のキャスティングとの声も。セリフが一言もありませんでしたが、これは三谷さんから真田丸出演のオファーがあった時、セリフがない役だったらオーケーとの条件だったかららしいです。家康との会話も扇子で口元を隠し、側室の阿茶局を経由して行っていました。清水ミチコさんの出演はこの回限りとの事です。約2分半の出演でしたが強烈なインパクトを与えてくれた芸人さんでした。


以上、長文になりましたが、11話~20話までに退場した主な登場人物の紹介です。(この他にも退場となった登場人物はいますが、ここでは割愛します)
1話~10話と比べて、退場者がグッとへりました。まぁ序盤は武田家滅亡、本能寺の変、天正壬午の乱とビックイベントが続きましたからね。逆に大阪編がスタートして初登場した者がドバッと増えました。

今回紹介した中でもっとも印象的な退場者は、室賀正武ですかね~ 惨殺と言う強烈なインパクトな死に方だったし。もう「黙れ、小童!」を聞けないのは寂しいですね。

石田三成が大谷吉継の秀吉への諫言を制止したのは理由があった!

NHK大河ドラマ「真田丸」第20話「前兆」では、聚楽第落首事件が描かれてましたね。関白太政大臣となり、最高権威を手にした秀吉は罪のない人々の処刑を命令するという暴君ぶりを発揮。さすがの三成も秀吉に決死の諫言します。寧のおかげで三成はなんとか切腹は免れますが、史実では、これからも次々と狂気の秀吉の恐怖政治があるので、ドラマ「真田丸」で三成がどう対処するのか、そのあたりが注目です。


さて、今回は小ネタの豆知識になるのですが、今回の落書きの犯人捜しが難航する中、大谷吉継が
「余計な口を挟んですまんが、高々悪戯書きではないか。上に立つ者がいちいち目くじらを立ててどうする」と三成に疑問を投げかけます。

それに対して三成は「同じことを殿下の前で言えますか?」と吉継に返します。

吉継は「勿論」と答えると同時に秀吉に諫言しようと立ち上がります。

すると、あわてて三成が「申すべき時が来れば、私が申し上げます」と吉継の行動を制止します。

いつも沈着冷静な三成が大谷吉継の行動に、珍しくというか初めて焦った表情をみせました。


実はドラマでは描かれていませんが、実は1587年、九州征伐をしている時期に大谷吉継は秀吉に何かの諫言をして、謹慎処分になっています。石田三成は、秀吉の弟、豊臣秀長に謹慎解除のとりなしをして、時期は不明ですが謹慎がとかれます。

このような背景があるわけで、大谷吉継が、再び秀吉に諫言しようものなら今度こそ、切腹させられてしまうと三成は焦ったのでしょう。

おそらく脚本家の三谷さんは、この謹慎エピソードを知っていて、俳優さんに演じさせたと思います。

片岡愛之助さんが演じる大谷吉継ですが、沈着冷静で気配りができ、今回のように間違ったことにはきっちり秀吉に諫言しようとする姿にますます大谷吉継ファンが増えたのではないでしょうか。

聚楽第落首事件 時系列まとめ 史実はもっとエグかった

聚楽第落首事件 時系列まとめ 史実はもっとエグかった


NHK大河ドラマ「真田丸」第20話「前兆」では、聚楽第の落書き事件が描かれていましたね。
茶々や妊娠して生まれてくる子を揶揄する内容の落書きで秀吉の逆鱗に触れ、多くの罪のない人が犠牲になる、世に言う聚楽第落首事件です。
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今回、落書きが発覚して、秀吉の子が生まれるまでを時系列にまとめました。この事件の日付は、奈良興福寺多聞院主の日記「多聞院日記」と大坂天満本願寺に身を寄せていた山科言経の日記「言経卿記」を参考にしています。


1589年2月25日 秀吉の政庁兼邸宅である聚楽第(じゅらくだい)の南外門の白壁に、何者かが淀殿の懐妊を茶化した内容の落書きをする。
1589年2月28日 警備担当の大名10名が追放処分を受ける。
1589年2月29日 石田三成と増田長盛が追放処分をうけた尾藤道休を匿った本願寺顕如に引き渡しを迫る。
1589年3月 1日 本願寺顕如は尾藤道休と願得寺顕悟(けんご)を自害させ、その首を豊臣秀吉に差し出す。
1589年3月 2日 尾藤道休と願得寺顕悟(けんご)の住宅を取り潰し、2人を匿ったとして家があった町(街区)を焼き払う。
1589年3月18日 番衆17名(事件当日夜に門を警備していた者)の鼻・耳を削ぎ磔にする。
1589年3月19日 尾藤道休の妻子を含む、彼らが住んでいた街区の住民66名を京都六条河原で磔にて処刑する。
1589年5月20日 秀吉、聚楽第にて「金配り」をおこなう。
1589年5月27日 豊臣秀吉の長男、捨(鶴丸)が誕生。


この事件は結構有名で大河ドラマ「軍師官兵衛」でも落首事件が描かれ竹中直人演じるダークサイド秀吉が見られました。
ドラマ「真田丸」では、石田三成と寧が秀吉を諌めた為、罪なき人の殺生は門番17人で終わりましたが、なんだか後味悪い終わり方でした。
天下人秀吉の恐怖政治に繋がっていくまさにタイトル通り「前兆」を匂わせる事件でした。

ドラマ「真田丸」で、今まで秀吉にイエスマンであった石田三成が、信繁を制して死を覚悟して秀吉に諫言するシーンは、今までの三成とはまた一味違った人物像で三成ファンも増えたのではないでしょうか。

賤ヶ岳七本槍 最大石高ランキングまとめ

NHK大河ドラマ「真田丸」は、16話「表裏」で石田三成の口からチラッと賤ヶ岳の戦いで活躍した
七本槍の武士を挙げていました。(※賤ヶ岳の戦いについての詳細はコチラで説明しています)

羽柴秀吉と柴田勝家が激突した賤ヶ岳の戦いで、戦功をあげた秀吉の家臣7人は、それぞれ出世し石高が上がっていきますが、7人がそれぞれ最大ででどれくらい石高があったかを調べ最大石高順でランキングにしてみました。


1位 加藤清正(かとうきよまさ) 520,000石
別名虎之助(とらのすけ)とも言います。賤ヶ岳の戦い以降、文禄・慶長の役でも大活躍しています。
石田三成とは馬が合わず、関ケ原の戦いでは東軍につきました。1600年の関ケ原の戦い後に
肥後熊本一国を与えられました。熊本城を築城した事でも有名です。


2位 福島正則(ふくしままさのり) 498,000石
通称は市松と呼ばれていました。七本槍の他の6人は賤ヶ岳の功績で3000石でしたが、正則だけは5000石与えられています。
賤ヶ岳の戦い以降、小牧・長久手の戦い、四国征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役でも大活躍しています。清正と同じく、石田三成とは馬が合わず、関ケ原の戦いでは東軍につきました。
1600年の関ケ原の戦い後に安芸広島と備後鞆を与えられました。


3位 加藤嘉明(かとうよしあき) 435,500石
通称は孫六と呼ばれてました。加藤清正と同じ姓のため、陰に隠れイマイチ世に名前が知られていませんが、こちらも清正と同じく、石田三成とは馬が合わずに、関ケ原の戦いでは東軍につきました。
1627年に伊予松山より陸奥会津に移封され、その時に最大石高になりました。
ドラマ真田丸では登場予定はないようです。


4位 脇坂安治(わきざかやすはる) 53,500石
七本槍の中では最年長の武将です。賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家の甥の柴田勝政を討ち取る功績をあげたと言われています。水軍衆の指揮官を務め、九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵に従軍しています。
1600年の関ケ原の戦いでは、小早川秀秋の寝返りに乗じて東軍に寝返り、伊予大洲に移封され、その時に最大石高になりました。
ドラマ真田丸では登場予定はないようです。


5位 片桐且元(かたぎりかつもと) 40,000石
通称は助作と呼ばれていました。賤ヶ岳の戦い以降は、文官としての働きが主だったようです。1600年の関ケ原の戦いでは、徳川家康に息子を人質として送り、二心のないことを誓います。そのおかげで戦には参加しなかったにも関わらず石高が加増となり、豊臣家の家老に任ぜられました。その後は豊臣家と徳川家の調整役として尽力します。
1615年に大坂夏の陣の功績を家康から評価されて、山城,摂津,河内,和泉を与えられました。その時に最大石高になりました。
ドラマ真田丸では、秀吉から無茶振りされたり、家康との交渉で家康に怒られたりすると、困り顔で胃が痛そうな仕草を見せ、胃薬を上げたくなりますね。同じ七本槍の平野長泰から「抜け作」と陰で言われたり、石田三成からも嫌味言われたり現在のサラリーマン中間管理職のような苦労が感じられます。


6位 糟屋武則(かすやたけのり) 13,000石
七本槍の中でもあまり名前が知られていない超マイナーな武将です。戦役の殆どが後方支援だったようです。豊臣秀次が失脚し高野山へ出発するまでの間、自分の屋敷に秀次を軟禁していました。1995年8月に加増を受け加古川城主の大名になります。関ヶ原の戦いでは七本槍では唯一西軍に加わりました。
ドラマ真田丸では登場予定はないようです。


7位 平野長泰(ひらのながやす) 5,000石
七本槍で唯一大名になっていない事で有名なマイナー武将です。石高も賤ヶ岳の戦いで与えられた3000石から殆ど増えていません。
1995年8月に大和国十市郡田原本にほんの少し加増されたのが最大石高になります。関ケ原の戦いでは東軍につきますが、徳川秀忠に従って従軍した為、本戦に間に合わず手柄を立てることができずに石高も増えませんでした。
こんなマイナーな平野長泰ですがドラマ真田丸では信繁と一緒に馬廻衆として頻繁に出てきます。現代で例えるとうだつが上がらない係長といったところでしょうか。でもなんだか憎めないキャラクターです。


以上、7人の最大石高ランキングを書きましたが、上位と下位ではかなりの石高の差がありますね。
最近の研究によると、賤ヶ岳七本槍は、譜代の有力な家臣をもたなかった秀吉が自分の子飼いの武将の箔をつけるためのプロパガンダだったという説もあります。

しかしながら、まったく出世していない平野長泰をドラマに登場させるところが演出家の三谷さんらしいですね。

真田昌幸 徳川家康との手切れから与力になるまでの時系列のまとめ

NHK大河ドラマ「真田丸」第18話「上洛」では、ついに真田昌幸の上洛が実現しましたね。しかし真田の領地安堵は確約してくれましたけど、真田家は徳川家康の与力になるように秀吉よりお達しが出て、戸惑いながらも秀吉の命令には逆らうことはできずしぶしぶ承知しました。そして昌幸はそのまま駿府へ行き家康に謁見し頭を深々と下げ臣従を誓います。最後の家康の高笑いするシーンは、家康が悪役ボスに見えたのは私だけではないでしょう。今回ほど、しょぼくれて小さく見えた昌幸はありませんでした。

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さて、本能寺の変で信長が死んだ後、天正壬午の乱では、昌幸は生き残りをかけて、主君を次々と替え、乱の終盤には徳川家康に臣従します。
しかし、沼田領問題での徳川の対応に納得がいかなかった為、昌幸は徳川と手を切り、上杉景勝に臣従します。そして徳川との戦を経て、今回の徳川の与力となるわけですが、そこに至るまで様々な動きがありましたので時系列でまとめました。

(※天正壬午の乱における各大名の様々な動きはコチラに詳細を書いています。)


1585年 7月15日 真田昌幸、徳川家康と手切れ、上杉景勝に臣従
1585年 8月 2日 第一次上田合戦(神川合戦)が始まる。
1585年11月13日 徳川家康の家臣、石川数正が出奔。家康、真田攻めを諦め、全軍遠江に撤退する。
1586年 6月14日 上杉景勝、上洛し秀吉に臣従する。
1586年 7月17日 徳川家康、真田家征伐のために浜松城から駿府城へ入る。
1586年 8月 3日 豊臣秀吉、上杉景勝に家康が真田に攻め込んだ際、支援しないように伝える。
1586年 8月 6日 豊臣秀吉、徳川家康に真田家征伐を命じる書状を送る。
1586年 8月 7日 豊臣秀吉、徳川家康に出陣を延期するように要請する。
1586年 9月25日 豊臣秀吉、上杉景勝に真田家征伐の中止を伝える。
1586年10月27日 徳川家康、上洛し秀吉に臣従する。
1586年11月 4日 豊臣秀吉、上杉景勝に真田家の所領を家康に渡すように命じる。
1587年 1月 4日 豊臣秀吉、上杉景勝に真田昌幸を上洛させるよう書状を送る。
1587年 2月ごろ 真田昌幸、上洛し大阪城を訪れ、秀吉に謁見する。
1587年 3月18日 真田昌幸、駿府に出向き家康に出仕。与力大名になる。


今回の動きは、一次史料となる、書状があり年月だけでなく日付もきっちり記載されています。ドラマの通り、秀吉は家康に真田討伐の命令を出した次の日に出陣を延期するように要請しています。かなりエグイやり方ですね。秀吉には真田を滅ぼすつもりは全くなかったのでしょう。

さて、ドラマで昌幸が徳川の与力になるようにと、お達しがでたのは昌幸が上洛の時でしたが、史実では11/4に秀吉から上杉景勝に「真田を家康に召し出すことにしたので、景勝からも真田に申し聞かせるように」との書状を送っています。ですので、この頃には、家康の与力になる事は決まっていたようです。

ともかく、真田家は家康の家臣の形となったわけですが、もう一つ大きな問題をクリアしないといけない問題があります。それは沼田領問題です。
天正壬午の乱後、徳川と北条は同盟を結んだ際、上野の沼田領は北条の領地とすると取決めをして、納得いかない真田は明け渡しを拒否して、沼田城にて度々北条軍を撃退しています。でも徳川の与力になったので、これからは家康の命には逆らえません。すんなりと沼田城を明け渡すのか、ドラマではどう展開するんでしょうね。

豊臣秀吉 親族関係の武将まとめ

NHK大河ドラマ「真田丸」第15話「秀吉」では、新キャストが一挙にドドーっと登場しましたね。歴史通の方ならドラマを見ながら名前のテロップを見て、すぐに誰か理解されたかとは思いますが、歴史初心者である私は、一度にこんなに登場すると正直言って一度ドラマを見ただけでは覚えきれません(汗)

その中でもドラマ終盤に寧が主催した里芋パーティーで秀吉ファミリーが集結して、有働アナより人物の名前と血縁関係の説明がありましたが、おさらいを兼ねて秀吉とはどのような親族関係になるのかをまとめました。(※親族関係は諸説ありますが、ドラマに沿って解説していきます)


豊臣秀長(とよとみひでなが)
秀吉の三つ下の弟です、異父弟とも実弟とも言われています。秀吉が家臣の中で絶大な信頼を寄せていたのは、この秀長です。
唯一、秀吉の暴走を諌めていたのが秀長で、秀長が亡くなった後は、秀吉の行動に異を唱えるものがいなかった為、豊臣家滅亡の原因の一つになったと言われています。秀長が長生きしていれば、利休や秀次の切腹や無謀な朝鮮侵攻もなかったかもしれません。
真田丸で秀長を演じているのは、千葉哲也(ちばてつや)さんです。舞台を中心に活躍し演出家としても評価が高い俳優さんです。


加藤清正(かとうきよまさ)
別名虎之助(とらのすけ)とも呼ばれる、賤ヶ岳の七本槍の一人です。秀吉の母(なか)の従妹の子で、続柄は秀吉にとって、はとこになります。
はとこなので秀吉との血の関係は薄いですが、清正が幼少の頃より、秀吉や寧が可愛がったようです。ドラマでは、石田三成の屋敷で酔っぱらって正体を無くしてしまい、次の日に詫びに来る律儀な所や秀吉の命で、馬廻衆の立花権三を井戸に投げ入れ殺害する冷徹さを描いています。
あと、関ケ原の戦いの伏線となるような石田三成と意見の対立が描かれていました。
真田丸で清正を演じているのは、新井浩文(あらいひろふみ)さんです。映画を中心に活躍している実力派俳優です。身長は181㎝あり、並ぶと信繁(堺雅人)が小さく見えます。


福島正則(ふくしままさのり)
清正と同じく、賤ヶ岳の七本槍の一人です。秀吉の父の妹の子で、続柄は秀吉にとって、いとこになります。ドラマでは史実同様、大酒飲みで描かれており秀吉よりも一回り大きいマスでグビグビ酒を飲んでます。清正同様、石田三成とは馬が合わず、ドラマでは正則が幼少の頃、可愛がってもらった秀吉の母が徳川家康の所に人質に行くことを決まった事に不満を持ち石田光成ともう少しで喧嘩になりそうでした。
真田丸で正則を演じているのは、深水元基(ふかみもとき)さんです。モデル出身の俳優さんで、身長は187cmもあり、ドラマで加藤清正と並ぶと二人のデカさに圧倒されます。


豊臣秀次(とよとみひでつぐ)
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秀吉の姉の長男で、続柄は秀吉にとってになります。秀吉の実子、鶴松が1591年8月にわずか3歳で亡くなると秀吉は11月に秀次を養子にして12月には関白に就任します。
しかしその2年後、秀吉の実子の秀頼が誕生すると、すぐに邪魔者扱いされ強制的に出家させられる、悲劇の関白です。ドラマでは、鷹狩の帰りに美味しそうなビワをちぎって、叔母(寧)にプレゼントする心優しいところがあったり、政治の面では、秀吉に質問されても答えられない少しおバカさんで、プライベートでは秀吉に似て女性が大好きな武将として描かれています。なにしろ史実では、多くの女性に手を出し、側室の数が30人以上いたらしいですから。
真田丸で秀次を演じているのは、新納慎也(にいろしんや)さんです。元「うたのおにいさん」で活躍し、以降ミュージカル作品で活躍しています。


辰之助(たつのすけ)
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後の小早川秀秋(こばやかわひであき)です。寧の兄の子で、続柄は秀吉にとってになります。小早川秀秋は1582年生まれなので、秀吉と歳の差は44歳です。因みに秀次との歳の差は14歳です。
辰之助が3歳の時に秀吉の養子になります。その後、秀吉の実子の秀頼が誕生すると、1594年に秀吉の命により小早川家に養子縁組に出されます。
こんな愛くるしい辰之助も元服してからは、酒を覚えた為、深酒をして寧も頭を抱えていたようです。21歳の若さで病死するもアルコール中毒による内臓疾患が死因であると言われてます。
秀吉の養子になった事で、様々なプレッシャーがあって、お酒を飲まなければやってられなかったのでしょうか、、、。
真田丸で辰之助を演じているのは、齋藤絢永(さいとうけんと)くんです。おそらく次の小早川秀秋の登場は成人した時でしょうから、おそらくこの回で退場かと思います。

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里芋パーティーですが、話の流れから上杉景勝が上洛した1586年頃と思われますので、各年齢は、
秀吉49歳、秀長46歳、清正24歳、正則25歳、秀次18歳、秀秋4歳になります。因みに信繁は19歳です。
有働アナがナレーションで言っていたように、この頃が秀吉ファミリーの一番幸せな時期だったのかもしれません。

真田信繁 人質生活は上杉景勝と豊臣秀吉の所だけではなかった!!

NHK大河ドラマ「真田丸」第13話「表裏」では、上杉景勝と直江兼続が信繁に別れも告げずに越後に
戻ってしまいましたね。しかも今度は、秀吉の所で人質生活を送ることになるとは、上杉景勝をとても
尊敬している信繁にとっては、戸惑いを感じた事でしょう(もちろんドラマの中の事ですが)

さて、タイトルのとおり史実では、信繁は幼少の頃より人質生活を、結構色々な所で過ごしています。

真田信繁は、1567年に当時まだ武藤喜兵衛を名乗っていた昌幸の次男として、甲府の躑躅ヶ崎館にて誕生します。(※武藤喜兵衛の詳細はコチラで説明しています)
幼名は「弁丸(べんまる)」と名付けられました。年少期は、武田家の人質として母や兄と共に過ごしています。
武田家時代の人質は、ドラマで有働アナが語っていましたが真田家のファミリー丸ごと新府城下の真田屋敷で過ごしていたので、幼い弁丸にとっては人質って感覚はあまりなかったかもしれません。

1582年に武田勝頼が天目山で自害し武田家は滅亡します。真田昌幸は織田信長に下り、真田家は人質を織田家に出すことになり、通説ではドラマと違い、信繁の姉「村松殿(ドラマでは松)」が人質になり安土に行くという記録はなく、昌幸の母(とり)と弁丸(信繁)が信長の家臣である滝川一益の人質として送られます。この時、15歳でまだ元服していなかったと考えられます。

1582年6月、武田家滅亡から3ヶ月後に本能寺の変が起こり、信長の死後、織田家臣は大混乱。滝川一益は、神流川の戦いで北条軍に大敗北し総崩れとなり、一益の居城である伊勢・長島城に敗走することになります。しかし伊勢へ撤退するには、木曽義昌の領地を通る必要があります。木曽義昌は、一益に信濃を通る条件として、小県郡と上野衆の人質を渡すように要求し、一益はこれに従います。

こうして、昌幸の母と信繁は今度は、木曽義昌の人質となります。
二人はしばらく木曽にいましたが、3ヶ月後の1582年9月に、徳川家康が木曽義昌に木曽の領地を安堵する条件として小県郡と上野衆の人質を引き渡すように要請し、義昌はこれに従います。昌幸の母はドラマと同様に徳川家康の所に人質になったようですが、信繁はこの時点で解放されて、真田家に戻ったと考えられます。

そして、第一次上田合戦の直前に真田は上杉家に臣従を誓い、1585年8月に信繁は上杉家の人質になります。この時、信繁は18歳ですが弁丸の名で書いてある書状が残っており、まだ元服していなかったと考えられます。

1586年6月、上杉景勝は上洛して羽柴秀吉に臣従します。ドラマでは信繁は景勝に随伴して越後から大阪に来たように描かれていますが史料にそのような記述はなく、これはフィクションではないかと考えられます。ともかく上杉が秀吉に臣従後にどこかのタイミングで秀吉の人質になったのではないでしょうか。秀吉は信繁をたいそう気に入ったようで、人質でありながら近習に取り立てられました。

人質って、現代だとネガティブなイメージがありますが、戦国時代ではポピュラーな事でした。そして人質先で小姓として仕えることで出世する道が開けます。信繁の父である昌幸も7歳で武田信玄の人質として甲斐に送られ、そこで信玄に見出され名門武藤家の養子になり、武藤喜兵衛として足軽大将に出世しています。

上杉景勝は、信繁をたいそう気に入り、人質というよりは客将として迎え入れ、屋代秀正の遺領のうち千貫文を信繁に与えるという破格の待遇でした。景勝は、信繁をゆくゆくは上杉家を支える重臣になってもらいたいと考えていたのかもしれません。

ですが、上杉家の人質生活は1年も満たなかったのではと考えられます。景勝は、将来有能な人質を秀吉に取られた格好になるわけで面白くはなかった事でしょう。

ただ、景勝のところから秀吉のところに変わったのは、出仕先が中小企業から大企業に変わったようなもの。信繁の将来にとってとても有益なものだったと思います。

ドラマで信繁は、馬廻衆として秀吉に仕えることになりましたが、これからどのような働きをするのか、そして様々な武将達とどのような関わりをもつのか非常に楽しみです。

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